PASTOR BLOG 牧師からのメッセージ

お知らせやイベント、日々の出来事を綴った牧師によるブログ

2019.03.25

聖画②

教会では毎週日曜日ユース礼拝堂で礼拝が行われています。

どなたでも歓迎いたします!

礼拝堂の台所には私の好きなロイヤルコペンのプレート

私の部屋の前には教会のスタッフが描いた私の似顔絵

礼拝スペースには叔父の描いた薔薇の絵

そして先週記したレンブランドの

「放蕩息子の帰還」が飾られています。

この「放蕩息子の帰還」は新約聖書のルカ15章に記されている

イエス・キリストの有名なたとえ話です。

ある所に父と二人の兄弟がいました。

そこでの生活にうんざりし束縛を嫌ったのか

ある日突然弟は家から出ることを父に申し出ます。

「やりたいように生きていきたい!」と思ったのでしょうか。

そして本来ならば死後にしか受け取ることのできない

父の財産を要求し即 しかも遠くへと出て行ってしまいました。

父親の心中はいかなるものだったでしょうか。

家をでた弟は苦労もなく汗一つ流さずに得た金銭ですから

その大切さ価値がわからず

”飲み 買い 打つ”の生活三昧でした。

これを「放蕩(ほうとう)」といいます。

大切な青春の時間を浪費してしまい

そのことにすら気づきませんでした。

しかし楽しいことはいつまでも続きません。

やがて大きな試練がやってきました。

生きるか死ぬかの試練でした。

食べ物もなくなり豚の世話役という

当時奴隷の仕事をするようになったというか

誰かの奴隷となってしまったのです。

金銭があったときは共に飲み騒いでいた人々が

離れて行ってしまいました。

まさしく「金の切れ目が縁の切れ目」で

これはいつ世の常ですね。

しかしどん底状態の時

弟息子は我に返るとができました。

苦難 痛みを通して悔い改めへと導かれたのです。

魂が敏感になるのです。

新約聖書の原語のギリシャ語で

「罪」はハマルティアといいこれは

「的外れの方向に引っ張られていく力」を意味します。

弟息子は的を外れた生き方を神の前に悔い改めました。

そして父にも謝罪し正直に悔い改めようと家に戻ろうと決心します。

心中いかなるものだったでしょうか。

「親父からもらった金は使い果たし一文無し

こんな酷く汚くなってしまった俺を

父は受け容れてくれるだろうか・・・」

聖書には驚くべきことが記されています。

息子の帰りを待ち望んでいた父は

息子を見つけ走り寄り抱きしめ口づけし

ボロボロ服に新しい服と履物を与えたのです。

そして家に招き入れ食事でもてなしました。

以上はたとえ話であって勿論実話ではありませんが

イエスはこの話を通し限りない神の愛を伝えたのです。

弟息子は神様の愛に背を向けた

私たち人間の姿でもあるのです。

私は今から47年前のこの春に

上野発の夜行列車に乗って青森 そして青函連絡船

函館 札幌と初めてこの地にやって来ました。

北海道に憧れていたこともありますが

もう一つ父の権威の束縛から逃れたかったことも正直ありました。

そして思うがままに欲するままに生きてみようと思いました。

しかしその後にあったものは空しさであり

魂は満たされませんでした。

二年後デンマークの地で悔い改め信仰を持ちました。

父は真面目で高度成長期の仕事人間で

管理職だったからか熱心に朝から晩まで働いていました。

厳しい面もあり小6の時夜叱られて

私は家を出て数時間裸足で近所を徘徊したことを覚えています。

*ちなみに私も次男です。

思春期はそんな父に反発反抗しました。

しかし離れて住むようにあると

そのありがたさがわかるようになり

私が先にクリスチャンになると父を愛し

父のために祈る者と変えられました。

そんな父も82歳の時に洗礼を受け

87歳で天に召されて行きました。

さてこのイエスのたとえ話の大切なことは

①現状がどうであろうと立ち上がる決心をすること

②方向を転換すること

③正直に神様そして罪を犯した人に

その罪を悔い改め告白することを

今日に生きる私たちに教えていると思います。