PASTOR BLOG 牧師からのメッセージ

お知らせやイベント、日々の出来事を綴った牧師によるブログ

2019.10.01

一粒の麦

12月6日から一つの映画が上映されます。

タイトルは「一粒の麦」です。

聖書からこのタイトルが付けられました。

(ヨハネ福音書12:24)

明治に我が国の女医第一号になられた

萩野吟子さんの生涯を描いた作品です。

現在我が国の女性医師は7万人もいないと思います。

男性医師はその4倍はいると思いますが

先進国ではその比率は圧倒的に少ないのです。

資料によると女性医師は昭和初期におよそ3千人

大正時代は80人 そして明治時代は一人もいませんでした。

その時代女性が医学を学ぶ道がなく法的にも許されていなかったのです。

荻野吟子は1851年埼玉に庄屋の娘として誕生しました。

兄弟といっしょに熱心に勉強をしたそうです。

16歳で名家に嫁ぎました。

*♬15で姉やは嫁に行き~♬の時代です。

しかしわずか2年後で夫とその家から離縁状を叩きつけられてしまいます。

夫から淋病をうつされてしまったのが原因でした。

まったく理不尽なことです。

当時は治る見込みもなく子供も産めないと見られました。

ショックと恥ずかしさの中 実家に戻ることとなりました。

その後入院をされたのですが

もう一つの屈辱を味合わなければなりませんでした。

当時は男性医師しかおらず患部を多くの医師や

研修医にさらさなければならなかったからです。

苦痛と涙の日々でした。

2年後一つの決心をします。

「このような苦しみと惨めさの中にいる女性たちを救おう」と。

医師の道を目指すのですがまず家族が大反対でした。

「家の恥だ」「女に学問は要らぬ」そのような時代でした。

22歳の時に上京し2年後に東京女子師範学校が

開校し熱心に学び29歳で優秀な成績で卒業しました。

その後いくつかの医学校に入学を申し込みますが

すべて断れたそうです。

何回も諦めずに申し込み続けようやく

「好寿院」という私立の医学校への入学を赦されるのですが

学費や生活費はすべて自分で働きながら学び続けたそうです。

いよいよ開業試験を受ける段になったとき

これまた受験資格を得られなかったそうです。

しかしこれまたネバーギブアップでようやく受験を許され

その後の今でいう医師免許の国家試験にも前期後期と一発で合格しました。

女性は32名受験したそうですが受かったのは

荻野吟子さん一人でした。

ここに我が国初の女性医師が誕生されたのです。

東京で開業しましたが大変評判が良く

多くの患者が来られその人柄が人気を呼びました。

そしてその後の女性医師の門が開かれて行ったのです。

40歳の時運命的な出会いがありました。

それはクリスチャン青年の志方之善氏との出会いでした。

志方氏が14歳年下であったことから

周囲は反対しましたが二人は結婚をしました。

当時キリスト教の禁制は解かれ人々が

教会に集い始めましたがその反動で

政府はクリスチャンを圧迫し多くのクリスチャンは

新天地を目指し北海道へと移住し理想郷作りを始めたのです。

志方氏の導かれた所は利別原野(今金)でした。

しかし現実の開拓は過酷で厳しいものでした。

吟子さんは当初東京で働きながらサポートをしていましたが

44歳の時東京の病院を辞められ夫のいる

北海道へとやって来られたのです。

今でも今金に神丘という場所があり

「インマヌエル(神ともにおられる)」と書いた

看板が道路沿いにありますね。

さて北海道に来たものの現実は非常に厳しく

重労働 マラリヤ 虻や蚋に咬まれ

生活は困窮しました。

吟子さんは瀬棚(せたな)で開院し

多くの村民を助けましたが

何と夫のと志方氏は過労で倒れ

42歳で亡くなってしまったのです。

吟子さん58歳の時 養女を連れて帰京し

再び東京で開院しましたが

大正2年63歳で波乱の人生を閉じられました。

昭和59年生誕100年を記念して

地域医療に貢献した女性に贈られる

「荻野吟子賞」が制定されました。

現在せたなにあった医院跡地には

「荻野吟子女史顕彰碑」が建てられており

その碑文には次の聖書の箇所が記されています。

「人が自分の友のためにいのちを捨てること

これよりも大きな愛はだれも持っていません。」

(ヨハネ15:13)

私たちの住む北海道にはフロンティアスピリットに

生きた人が沢山います。

是非映画をご覧になってくださいね~。

*お知らせ11月4日(月)17:30~
「ドラム演奏とパーカッションの夕べ」が開催されます。
無料でどなたでも参加できます。

詳しくは011(552)0151 児玉へ